東京都知事選挙

既得権益と闘う桜井誠

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前書き

小池ゆりこと桜井誠とは選挙公約が重なっている事も多い事は前回の私のブログで取り上げました。しかしこの二人が全く違う事も前回のブログで私は述べました。

では何がどう違うのか、今回のブログではそれを私なりの考えで述べて極めてよく似た考え方を持っていた歴史上の人物の話を中心に述べてみたいと思います。

今回は桜井誠よりもその人物の話が中心となりますが皆様の心の鏡でその人物と桜井誠とを比較して戴ければこれも選挙用のブログになると個人的に考えておりますので宜しくお願い致します。

この小池ゆりこと桜井誠との最も大きな違いは「既得権益との闘い」といってもよく言っていることが同じでもこの時点でこの二人は全く違う存在です。

既得権益との闘い」と簡単に申しますが、これ以上の敵は実は他には無く、これをやろうとした人間は歴史上でも悪者扱いされて、極悪非道の人間であったかのように後世に語り継がれます。このリスクにあえて踏み込もうとしているのが現在の桜井誠であり過去の日本でこれを大々的にやった人物を二人挙げるならば間違いなくそれは聖徳太子織田信長になります。

聖徳太子については良いイメージを植え付けられている感がありますが決してそうでは無く、現在の学校の教科書では「聖徳太子は架空の人物であった」などと歴史のもみ消しが行われており、現実の歴史でも聖徳太子の子供は殺されており蘇我氏大化の改新により滅亡しております。偉大な人物の一族を皆殺しにした暗殺事件を「大化の改新」などときれいな言葉で片づけている教育も考え物ですが今回はもっと誤解を受けている織田信長について述べてみたいと思います。皆様の心の中で桜井誠と比較して戴ければ幸いです。

織田信長と他の戦国武将との生まれながらの決定的な違い

現在から400年以上前になりますが日本は100年以上続いた悲惨な内乱時代を迎えていた歴史があります。世にいう戦国時代であり日本国内に独立国が数多く出来た時代でありその領土の持ち主は「国持大名」と呼ばれておりました。

この中で織田信長が特に力が強かった訳では決してありません。ここに歴史教育の大きな刷り込みがあり、出世の象徴として豊臣秀吉が書かれていますが織田信長については殆ど記述がありません。

信長の父、織田信秀の時代の織田家は守護職の斯波氏に仕える三奉行の一人でしか無く織田家は守護大名でも守護代でもありませんでした。

それを統一して有力な戦国武将の一人に上り詰める事から信長の仕事は始まった訳であり生まれながら戦国大名に近い位置にいた尾張の比較的近辺にいた今川義元武田信玄上杉謙信と信長は全く違う存在です。彼は尾張国内の内紛を一つ一つ鎮めて自分の権力を拡大する事から始めなければならなかった訳であり非常に根気のいる事を順番に成し遂げて尾張戦国大名に駆け上がった訳です。これだけでも物凄い成り上がりで出世の象徴でもあるはずなのに何故か通常の歴史教育では一言も触れられておりません。

戦力から見る信長と他の戦国武将の違い

一番決定的に信長と他の武将と違うのが戦に向かう際の「兵隊の質」の違いです。

この時代の他の武将の兵隊の多くは農民であり戦の為に駆り出された農民兵です。

ところが信長の兵力は最初から侍として禄を与えられた専門兵であり農民兵はおりません。これは確実にメリットとデメリットがあり最大のデメリットは土地を守る意識の無い兵士の戦力は非常に弱い事です。信長の戦績の勝率は確実に有力戦国大名の中でも下位であり負け戦も非常に多いのが現実です。メリットは一年中戦える事であり稲作期や刈り入れ等の農期に関係なくいつでも戦力を使える事です。

信長が最初にやった構造改革はこの兵農分離でありデメリットを補う為の鉄砲の使用であり三間半もの長槍の使用だった訳です。「信長の軍勢は弱い」というのは当時の常識であり弱い兵をうまく使う事によって信長の軍勢は成立していました。

信長と他の武将の「敵」の認識の違い

ここからはっきりと信長と他の武将との違いが分かれます。他の戦国大名の敵が自分と敵対する戦国大名であるのに対して信長の敵は既得権益です。具体的に言うとその第一が武力を持つ宗教勢力であり、終盤には朝廷までもがこの既得権益に入りました。

信長は結果として既得権益に味方する戦国大名と闘っただけであり最大の敵は既得権益を持つ宗教勢力です。大阪の石山本願寺との戦いには8年近い時間を使っており、一揆をおこす農民勢力も全て敵に回して戦いました。比叡山の焼き討ちや高野聖のなで殺しなど全てが既得権益との戦いです。

ここでよく誤解されるのですがだからといって信長は宗教弾圧をした事は一度もありません。石山本願寺を攻略した後も「浄土真宗の信仰の自由」の令状をわざわざ出しており比叡山を焼き討ちしたのちも信仰の自由は保障しています。信長が排除したのは宗教勢力が政治に介入する事であり彼はこの時代に政教分離を実現したのです。

宗教の勢力源となり庶民を苦しませていた関所の廃止、一部の商人しか商売が出来ない「市」「座」を廃止して自由な職業を庶民が選べる制度である「楽市楽座」の制定によって飛躍的に国内の経済を上昇させました。すべての既得権益の打倒という明確な目標を持った織田信長は他のどの戦国武将と比較しても異質な存在です。

天下を取る為の明確なビジョン

「京に上って天下を取る」という言葉を皆様はこの時代の映画や小説でお聞きになった事があるのでは無いでしょうか?

しかし現実問題としてこの時代に京都に上洛しても決して天下など取れません。京都には征夷大将軍がおり、天皇陛下がいらっしゃいます。上洛したところで謁見するのが関の山であとは自分の国に帰るだけです。

信長は既得権益を徹底して排除しましたが力を付ける為に既得権益を徹底して利用する事により天下を手中に収めました。まず彼は天皇陛下に惜しげも無く金品を上納し、応仁の乱で荒れ果てた京都の復興に尽力しました。次に前将軍足利義輝の後継者として足利義昭を次期将軍として擁立して、室町幕府を復活して見せました。勿論これは形だけの将軍職であり政治の権限は信長が握っていた訳です。次には京都の治安の回復です。信長は侍による狼藉を徹底的に防ぐ「一銭斬り」を実行し庶民の暮らしを安定させて京都の治安を回復させました。

既得権益を頼って成り上がった訳です。こういう明確なビジョンがあったからこそ、信長は京都に入る事で天下を見渡せる立場に立てた訳で、このビジョンが無ければ京都に到着したところで天下などは取れません。

地位を確立するまで徹底的に既得権に頼り地位を得た時点でそれを排除しにかかりました。将軍足利義昭を京都から追放し室町幕府は終焉しました。政治に口出しする正親町天皇には退位を迫り御所の一部を壊して馬揃えをおこない自分の実力を誇示しました。恐怖を感じた正親町天皇が信長に「征夷大将軍太政大臣か関白になってくれ」と頼んでくると「お答え、致しかねる」と断っています。天皇陛下の力などもはや自分には必要が無いと感じた信長はあくまで天皇陛下の退位、暦の改定にまで介入し完全に朝廷までも既得権益扱いしてみせました。その日から数日後、信長は京都本能寺で明智光秀の謀反によりその生涯を終える事になります。

これが信長の生涯であり彼の残した実績です。

あとがき

さて、皆様はこの織田信長の業績をどうお考えでしょうか?

もし、彼の存在が無かったら現在の政権分離した政治体制も無く宗教勢力の強大な発言力も残って現在の日本はかなり違う形になっている可能性が非常に強いと私は考えています。既得権益と闘う事は非常に危険であり信長の死にもこの既得権益が深くかかわっていたとみるべきだと思います。

ここで話を桜井誠に戻しましょう。彼はもう10年前には在特会を立ち上げてそれまでタブーとされてきた在日朝鮮人既得権益である在日特権に斬り込みました。戦後の日本が抱える大問題に正面から戦いを挑みその姿勢は現在まで全くブレていません。

小池ゆりこと桜井誠の大きな違いはこれまでのタブーを打ち破ってきた既得権益の打破の実績であり反対勢力に正面から闘いを挑む姿勢だと私は考えています。

幸いな事に我が国は世界から見て一番歴史の古い国家です。でもそれは悠長な平和な歴史を歩んできた訳では決して無く、身を捨てて既得権益を打破してきた人間の血の結晶でもある訳です。桜井誠を平成の織田信長に出来るかどうかは東京都民の皆様の一票の力にかかっています。

宜しくお願い致します。